厚木の大名 <N047>

   厚木市域の佐倉藩領      飯田 孝

佐久良神社(『厚木の小祠・小堂』より)
 宝暦十年(1760)、相模国では厚木市域の村三か村を含む合計十七か村が下総国(千葉県)佐倉藩領となった(「厚木の大名」46)。
宝暦十年当時の佐倉藩領は、下総・上総両国と出羽国を中心に、武蔵・常陸・上野・下野・相模の各国に散在し、相模国領十七か村は、高座・大住・愛甲の三郡にまたがっていた。
 堀田正亮が出羽国山形藩から佐倉藩へ入封直後、佐倉藩は、郡奉行―代官―取締役―五郷取締名主―名主という系列の郷村支配機構を設置した。
 相模国内佐倉藩飛地所領にもこの機構に沿って取締役と五郷取締名主が設置されたが、その詳細は解明されていない。
 とはいえ、断片的ではあるが、幕末期の事例が『綾瀬市史』6通史編中世・近世に紹介されているので、これを引用する。
 「また取締頭等は安政三年の例がわかるのみで、この時期大住郡・愛甲郡十二か村は取締頭=愛甲郡船子村(厚木市)名主市郎兵衛、五郷取締名主=大住郡内間木村(平塚市)名主満右衛門、取締組頭=大住郡宮下村(平塚市)茂左衛門と、更に大取締名主が置かれた大住郡新土村(平塚市)名主長右衛門が就任している。なお、大取締は取締頭の上に位置する臨時の役職である。」
 右の、引用文中にある「新土村」は、明治初期に「真土村」と改めている(『角川日本地名大辞典』)。
 また、「取締頭」であった市郎兵衛は、明治元年(1868)『船子村明細書上帳』に見える「堀田相模守領分 相州愛甲郡下船子村 名主市郎兵衛」と同一人であろう(『厚木市史』近世資料編(2)村落1)。
 佐倉藩領市域三か村の石高をあげると次のようになる。
  上落合村  百六十六石三斗七升一合
  船子村  二百五石九斗九升二合
  長谷村  二百石
 市域三か村の佐倉藩領のうち、上落合村については資料が確認されておらず、支配実態は不明であるが、船子・長谷二か村では、宝暦十年(1780)、佐倉藩領に編入された年の年貢割付状をはじめ、十五点の資料が前掲『厚木市史』に紹介されていて参考となる。
 慶応四年(1868)九月八日、年号は改まって明治となった。厚木市内の旗本領は韮山代官江川氏支配となり、韮山県となった。これに対し、市域佐倉藩領はそのまま残されて、明治四年(1871)七月の廃藩置県をむかえるのである。
 『厚木市史』収録資料には、荻野山中陣屋焼打事件や参議広沢真臣殺害賊徒が長沼村(厚木市)に一宿したことなど、明治維新期の見聞を書き留めた『世界風音記』がある。この記録には、慶応四年三月十四日、佐倉藩主が矢倉沢往還を通行し、国分村(海老名市)に逗留して上京したことや、廃藩置県の時の「風音」が次のように記されている。
 「明治四年七月、当国荻野山中城取上ニなる、米弐百俵ニなると云、城附村々神奈川県支配ニなる由、全く下説ニ而、諸藩不残県となる」
 佐倉県となった旧佐倉藩領は、間もなく足柄県に統合されて消滅する。現在、長谷には「サクラサン・ソウゴサン」といわれる明治七年(1874)銘の石祠「佐久良神社」が残っている(『厚木の小祠・小堂』) 

「厚木の大名」websiteの記事・写真の無断転載を禁じます。
Copyright 2005 Shimin-kawaraban.All rights reserved.