厚木の大名 <N050>

前橋藩・川越藩(松平氏)と厚木市域  伊從保美

川越藩主松平大和守直温(「文化武鑑」厚木市史編さん係蔵)
 寛延二年(1749)、酒井雅楽頭のあと前橋藩に入封した松平大和守朝矩(とものり)は、前橋城の水難によって、明和4年(1767)、川越城へ十五万石で移封した。ただし前橋七万五千石余は引き続き朝矩の分領とされ、陣屋を置いて支配した。
 この川越藩は武蔵国川越(埼玉県川越市)を藩庁とした藩。江戸から最も近い番城として重要視され、老中など重臣が配置された。城主は八家二十一代に及び、厚木市域に所領を有した松平氏(在藩は明和4〜慶応2)が親藩であった以外は譜代大名であった。
 川越藩の起立は天正18年(1601)譜代の重鎮雅楽頭系酒井家の租、酒井重忠が一万石を拝領したことによる。この酒井重忠は前回記述した酒井氏であり、川越から前橋藩へ移った。次に、慶長14年(1609)には弟の酒井忠利(二万石)が川越に入り、寛永12年(1635)には老中堀田正盛(三万五千石)、同16年には「知恵伊豆」といわれた老中松平信綱(六万石)、元禄7年(1694)には綱吉の側用人柳沢吉保(七万二千石)、宝永元年(1704)老中秋元喬知(五万石)と続き、明和4年、冒頭で記したように、家康の次男結城松平秀康の五男直基に始まる家系、松平朝矩が利根川水害のため前橋城から十五万石で移封した。
 朝矩のあとの藩主は、直恒(なおつね)・直温(なおのぶ)・斉典(なりつね)・典則(つねのり)・直侯(なおよし)・直克(なおかつ)と続いた。
 この間、治安維持・財政再建が課題となり、特に、文政3年(1820)武蔵国一万五千石が相模国三浦郡に替地となり、相州警固を命ぜられたことが藩財政を一層圧迫することになった。そこで、文政11年(1828)八代斉典は姫路転封を、次いで天保11年(1840)には出羽国荘内(山形県)への移封を願い、川越・荘内・越後長岡(新潟県)の三方領地替えを願い許可されたが、荘内藩農民の反対闘争で阻止された。かわりに二万石の加増がなされ、十七万石となった。
 やがて、文久3年(1863)直克は前橋城への還城を許され、慶応3年には、修築なった分領前橋へ入った。松平氏が前橋へ戻ったあとは川越藩最後の藩主として、老中の松平康英が八万四四二石で入封。大政奉還・戊辰戦争を経て、明治4年(1871)廃藩置県によって川越藩は川越県となった。
 川越藩の歴代藩主のうち、市域に所領を持ったのは松平朝矩であった。松平氏の相模国内の所領は、寛延二年前橋への所管替えの際に新たに加封されたもので、『新編相模国風土記稿』によると、愛甲郡には船子・愛甲・長谷村、高座郡には大庭・羽鳥村、大住郡には四ノ宮・豊田本郷・久松・寺田縄村、淘綾郡には国府本郷・山西村そして三浦郡四十四か村、鎌倉郡十三か村にあり、ほぼ酒井氏の所領を引き継いだものである。
 しかし、これらの村々は文化8年(1811)、陸奥国会津藩保科氏が鎌倉・三浦郡へ海防のため入った際、保科氏領に移るが、前述のように会津藩が引き上げた後の文政3年、一万五千石は松平氏の所領に復活した。しかし、厚木市域の村々は文化8年に他の領主の支配へと替わった。船子村は旗本石川造酒助、愛甲村は幕府領を経て石川造酒助、長谷村は堀中務と石川造酒助、飯山村は堀中務の所領となった。
 前橋から川越、再び前橋と居城が変化した松平氏の厚木市域の所領は、酒井雅楽頭から引き継いだ愛甲郡船子村・長谷村・愛甲村の三村と飯山村に、寛延2年(1749)から文化8年(1811)の間存在したと考えられる。
(終わり)

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