厚木市の指定無形民俗文化財となっている「愛甲ささら踊り盆唄」には、次のような歌詞がある(『厚木の古謡』)。
愛甲の若い衆は
いなせなものよ
白い三尺
きりりとしめて
平塚通いのほどのよさ
なお、故萩原保氏によれば、「白い三尺きりりとしめて」の部分は、「細のちょうちんに、愛甲と書いて」と唄われることもあったという。三尺とはこの場合、男性がしめる帯のことである。
また、「平塚通いのほどのよさ」の「平塚通い」は、東海道平塚宿(現平塚市)にあった遊郭に通うことであった。
明治14年(1881)の「娼妓貸座敷規則」(『神奈川県史料』)には、「娼妓貸座敷営業ヲ許ス可キ場所及戸数左ノ如シ」とし、次の記載がある
遊女細見(明治29年刊『平塚繁昌記』)
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横浜区 遊郭定限ナシ
橘樹郡 神奈川駅四十八戸 川崎駅三十二戸 保土ヶ谷駅二十五戸
北多摩郡 府中駅九戸
上布田駅四戸
下布田駅三戸
上石原駅二戸
下石原駅三戸
布田小島分壱戸
南多摩郡 八王子横山町・八日市宿 十八戸
三浦郡 横須賀大滝町十八戸 浦賀谷戸町五戸 三崎入船町五戸
鎌倉郡 戸塚駅三十二戸 藤沢駅大鋸町十二戸
高座郡 藤沢駅大久保町・改戸町二十七戸
大住郡 平塚駅三十一戸
淘綾郡 大磯駅三十六戸
足柄下郡 小田原駅十字町・幸町・万年町五十四戸
津久井郡 吉野駅十七戸 |
厚木には昔から遊郭がなかったため、遊女あそびといえば、地理的に一番近い平塚へ行くのが常であったという。
芸者(芸妓)と遊女(娼妓)には明確な区別があり、芸者は娼妓にまぎらわしい所業をすることが禁じられていたのである。
昭和11年(1936)の『厚木町史 第十九輯』には次のような「古老に聴く昔の話」が収録されている(なお、文中の〈 〉は筆者の注である)。
「昔は商人の町として相当さかえてにぎやかで、品物は、須賀港へ入ったものを、さらに河舟に積替ヘて厚木へはこんだ。今の相模橋〈現あゆみ橋〉あたりのとこいらへ陸あげをした。呉服などは平塚(当時平塚宿)あたりからわざわざ厚木へ買ひに来た。厚木はそれほどさかヘたが、女郎屋がなく(東海道の有名な宿場駅には女郎屋があった)、平塚から女郎が籠〈駕籠〉で来て客をつれていったものだ。
お茶屋は裏町(厚木はその頃、大通り〈現東町・厚木町の通り〉と厚木神社のある天王町の裏手に、天王裏(今の大手町〈現中町1丁目8付近〉となったもので、十数軒の家があったばかり)にあって、駒やの新ちゃんの家の、駒屋のおしょくなどといわれていた。
厚木の商人は大きい商店を持っていたし、景気もよく金廻りがよかったので、お茶屋で大尽遊びをして、わざわざ平塚の遊女屋までくり込んだと云ふ。(中略)昔は遊びに行くのに、今の様な紙幣や銀貨がなく、穴のあいた一文銭をサシにさして、かたにかついで出かけた。」
なお文中の「駒や」は、慶応元年(1865)5月、厚木を訪れた「異人アメリカラシキ者四人」が泊まった「こまや」とは関係があるのかもしれない(『藤沢市史』)。
古き時代の夢物語である。
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